ひよこが先かもしれない
どちらが原因でどちらが結果なのか、よく分からないときに「ニワトリが先か、卵が先か」なんて言ったりする。実はこれ、大きな問題を抱えている言葉ではないだろうか。だって「ひよこが先」かもしれないんだから。
このように二択を提示され、恰もその二択しか選択肢に存在しないように思わせることを「誤った二分法」というらしい。この「誤った二分法」は、日常に数多く潜んでいる。朝ごはんはご飯派かパン派か、犬派か猫派か、きのこ派かたけのこ派か、etc……。僕はカロリーメイト派だし、トカゲ派だし、ガルボ派だ。いや、こんな話はどうでもいい。もっと真面目な話で言えば、護憲派か改憲派か、資本主義か共産主義か、といった大きな話にも繋がるだろう。
世の中はそんなに簡単に二つに分けられるものではない。人はグラデーションの中で生きている。しかし、情報化社会において、あらゆるものは0と1で表現される。0と1をいくつ積み重ねても連続値は表現できない。一見表現できているように見えてもそれは近似でしかない。いや、情報化のずっと前からそうだ。「言葉」自体がそもそも連続値を切り捨てた離散的な表現でしかない。
そんなことはみんな当たり前に分かっているのかもしれない。だからこそ世の中にはいろいろな形の表現が存在しているのだと思う。でも、どうしても、今の世の中を見ていると連続値が蔑ろになれている気がしてしまう。言葉の意味なんて辞書に書いてあるとおりだろ。そう言われているような気がしてしまう。数学じゃないんだから。
言葉により切り捨てられた連続値の端数に敏感でいたい。それは、「ニワトリが先か、卵が先か」と問われたときに、「ひよこが先かもしれない」と発想できる力だと思う。その根源は世の中に対する反骨心かもしれない。作られた言葉の枠に嵌ってたまるか。しかし反骨心を持ち続けるのは体力がいる。だって切り捨てられた端数のことを考えるのは疲れるから。それでも日々少しジョギングをするように考え続けていきたい。思考の体力を落とさないためにも。