渋滞における会話の特殊性
今日はとても疲れているので、たまにはちゃんとdiaryっぽいことも書いてみよう。というのもここ数日地元の山梨に帰省していて、今日車で東京に帰ってきた。といっても東京‐山梨間なんて車で2時間ちょっとくらいだ。帰りに渋滞に捕まらないように三連休の中日に帰ることにした。しかし、結局渋滞に捕まってしまい倍くらいの時間が掛かった。
実は渋滞はそれほど嫌いでではない。ずっと話していれば良いからだ。一人のときは苦痛かもしれないけど。高速に乗るときは大抵誰かが隣に座っている。その人と喋っていれば良い。よく、「お茶しよう」とか「飲みに行こう」とか言ったりするが、これはお茶やお酒を肴にお喋りがしたいだけだったりする。「ドライブに行こう」もその類だと思う。車を運転することが目的ではなく、やっぱりお喋りがしたいだけなんだ。だったら「お喋りしよう」でもいい気がする。でも何かと理由を付けたがる。人はみんな恥ずかしがり屋なのかもしれない。
渋滞には他にはない特徴がいくつかある。一つは予測不可能性。本来目的地に着いているはずの時間に大幅な遅れが生じる。それにより不意に余剰の時間が生まれる。その不意に生まれるというのが良いのかもしれない。思ってもみない時間が与えられたことにより、新たな会話の糸口を探す。そこから普段はあまり話さないような会話が生まれるかもしれない。そんな瞬間が好きなのかもしれない。もう一つは閉鎖性だ。渋滞に嵌ってしまうと車の中からは抜け出せない。そこに縛り付けられる。逃げ場がない。だから強制的に会話するしかない。その強制力こそが何か新しいことを引き出すかもしれない。お茶やお酒だったら、ある程度時間のコントロールはできるし、いつだって逃げ出せる。もちろん、強制的に退店させられることはあるけど。予測不可能な時間の余剰は生まれない。だからこそ渋滞には不思議な力がある。
しかし、渋滞は疲れる。できれば渋滞に捕まりたくない。渋滞はこちらから求めるものではない。だからこそ嫌なやつではあるけど、憎めない。そんなヤツなのかもしれない。