独りよがりの自己肯定感
自己肯定感には二種類あると思う。それは閉鎖型か開放型かである。独りよがりかそうでないかと言ってもいいかもしれない。どういうことか。閉鎖型とは自分の中で閉じている、つまり自己完結しているということである。僕自身はかなり自己肯定感が高い方だと思っている。しかし、それはよくよく考えてみると閉鎖型な気がしている。他者にどう思われようが構わない。たとえ嫌われていようとも、自分で自分を肯定できる。生きているだけで十分素晴らしいし、毎朝太陽が昇るだけで幸せだ。それを幸せだと感じられる自分を肯定できる。それはそれで素晴らしいことなのかもしれないが、それだと他者との関係を閉ざしてしまいがちだ。自分のことなんて誰も興味ないだろうし、そもそも興味があるかどうか以前にどうでもいいと思ってるのではないか、なんて思っている。それは翻って、自分自身が他人のことをどうでもいいと思っているということでもある。そうなってくると、他者と積極的に関わろうとは思わない。他者との関係を閉ざしてしまう。
一方、僕の親しい人(ここではXと呼ぼう)は、開放型の自己肯定感を持ち合わせている(ように見える)。Xはことあるごとに「たぶんあの人、私のこと好きだと思う」とか「私を気に入ってくれたと思う」とか「私ともっと話したそう」なんて言っている。もちろん本当のところはどうか分からない。しかし、そう思い込めることで他者に開いている。実際に道端で知らない人に話しかけられても嫌な顔をしないし、マンションの隣人と仲良くなったりもしている。僕の独りよがりの自己肯定感とは大違いだ。
では、他者に開いていくことでどんなメリットがあるのか。別に閉じていたって何も問題はない気がする。しかし、この社会に生きている以上、他者との関係は切っても切り離せない。僕が今日食べたご飯だって、どこかの誰かが生産した食物をどこかの誰かが運んで、どこかのだれかが加工して、……結局、僕の胃の中に届いている。今この文章を書いているキーボードだってそうだ。何をするにもこの社会で生きている以上、他者の恩恵を受けている。普段はそんなこと意識されない。そもそも意識する必要なんてないのかもしれない。お金を介してやりとりは成立しているし、他者との関係なんてその記号のやり取りに過ぎないのかもしれない。大袈裟にいうと、そういう「他者」を意識させない効率化の果てに今の社会があるのかもしれない。でもやっぱりそれは良くないことだと思う。モノを買うときも、お金と商品で等価交換が成立しているのかもしれないが、やっぱり「ありがとう」と伝えたい。それは当たり前のことなんかではない。本当に感謝している。さらに話を広げると、そんな他者を意識させない社会の果てに今の政治状況があるのかもしれない。
やっぱり他者とは関わり合うべきだ。それがたとえ面倒くさいことだとしても。独りよがりの自己肯定感でも生きていけるのかもしれない。それでも僕は開放型の自己肯定を目指していきたい。そういう想いは持ち続けていたい。