中学生のとき、理科のテストで「金属イオンに炎をあてることで炎の色が変わる現象とは何反応?」という問題が出た。これに僕は「炎色」とだけ書いて見事に✗をもらった。未だにこんなことを覚えている。

正直、✗を与えるほどのことか?と思ったりもする。確かに、「〜〜という現象を〇〇反応と呼ぶ。〇〇に当てはまるものは?」と聞かれているのであれば、間違いなく正解といえるだろうが、「何反応?」と聞かれているのだから「炎色反応」と答えるのが筋なのだろう。もし「〇〇反応」に対して「炎色反応」と答えれば、それは「炎色反応反応」ということになってしまう。常識的に考えれば「炎色反応反応」なんておかしいと思う。しかし、そのような言葉がないとも限らない。同じように「何反応?」と聞かれているのだから、「炎色反応」と答えるべきなのだと思う。「炎色」とは呼ばれないのだから。

今でもこんなことを覚えているのだから、当時の僕にはそれなりのインパクトを与えた経験だったのだと思う。今思い返してみると、この経験が先生や学校、教育といったものに対して不信感のようなものを感じさせるきっかけになったような気がしている。

そこから僕はどんどんひん曲がっていく。僕自身の中では、「炎色」ではなく「炎色反応」であることぐらいは分かっているのだから、何の問題もない。そのテストで点数が下げられたことは人生に何の影響もない。そんな風に考えるようになった。テストで明らかに分かっている問題が出たとき、ここで正しい答えを書こうが、わざと間違った答えを書こうが、どちらにせよ僕はこの問題に答えることができる。それなら教育の目的は達成されている。テストの点数なんて気にする必要はない。正直に白状するとそんなひねくれ精神からわざと答えを間違えたことが数回ある。特に何の意味があるわけでもないからすぐやめたけど。そのくらい僕にとってはどうでもいいことだと思っていた。

掛け算の順序だったり、数式の立て方だったり、答えが合っているのに◯をもらえないなんて話をよく見かける。僕にとってはそれはどうでもいいことのように思える。本質はその問いに答えることができるか、その問題を理解しているかということだ。掛け算の順序が習った通りでないならば、それは理解しているのではなく、機械的に見える数字をただ掛けているだけなのかもしれない。それはつまり学習したことの本質を理解していないという可能性がある。そうであるならば理解を促す必要がある。それが教育というものなのだと思う。だからテストの点数にそれほど一喜一憂する必要なんてない。もちろんそれが入学試験で、その1点で人生が大きく変わってしまうのであれば大問題なのかもしれないが。

因みに上記の理科のテストで✗を付けた先生を、母はいじわるだと言っていた。確かにそうなのかもしれない。僕みたいな捻くれ者は嫌われていたようで内申点を下げられたこともあり(もちろんこのテストだけが理由ではないが)、かなり憤慨していた。それでも僕の人生には何の影響もなかったから大丈夫。何も気にしていない。ずっと覚えているけど。