ラジオ原理主義者
僕はラジオ原理主義者だと思う。つまり、radikoだとかPodcastだとかそういう類のものを認めていない。といいつつ今は深夜ラジオを生で聴くことができるような生活は送れないので、radikoやPodcastには大変お世話になっている。自分でも矛盾していることは分かっているが、やはりラジオはラジカセで電波を受信して聴くものだと思っている。
僕がラジオに出会ったのは中学生の頃。2003年くらいなので、radikoやPodcastなんてものはなかった。僕の中では周波数を合わせてノイズ混じりの音声を聴くことがラジオだった。大学生のときは深夜ラジオを聴きまくった。次の日朝が早いときは、ラジカセのイヤホン端子からPCのマイク端子に繋げて録音するようになった。いつからか常時PCを起動して、毎晩録音するようになった。誰が聴いているかも分からない。それでも確かにこの電波を受信して誰かの耳に届いているはずだ。どんな人が聴いているのだろうか。そんな想像が好きだった。
radikoが現れてからもしばらくは電波でラジオを聴き続けた。自分の中でradikoはあくまでもラジオを補完するもの。そういう位置づけだった。しかし生活環境が変わるに従って、深夜ラジオを生で聴くことが難しくなった。わざわざ録音したラジオをクラウド上に同期してスマートフォンから聴くのが面倒になった。いつからかradikoやPodcastで聴くことがメインとなった。ラジカセはなんて不便なんだ。
でもやっぱり僕の中のラジオを電波だ。電波で聴くことこそ至高であると未だに思っている。どちらも単なる音声コンテンツなのだから、耳に入れば同じように思える。それでも何かが違う。自分でもよく分からない。それはラジオに出会ったときの原体験にあるような気がする。単なる音声を聴いているだけではない。それを深夜にこっそり聴く体験こそがラジオだったのだと思う。
近年の「ラジオ」という言葉の使われ方に違和感がある。少人数でお喋りするような音声中心のコンテンツに「〇〇ラジオ」なんてタイトルが付いていたりする。元々の意味は「電磁波による無線方式の送受信方法」らしいが、そこから「電波による音声放送(ラジオ放送)」を指すようになった。そこまではいい。しかし、昨今の「ラジオ」は電波ですらない。そのように言葉の意味が変遷していくことはよくある。例えば「電話」といえば、元々は今でいう固定電話を指すものだった。そのときに持ち歩ける電話なんてものはなかったのだから当たり前だ。携帯電話の登場により、「電話」の意味が広がった。従来の電話を指していたものは「固定電話」と呼ばれるようになった。そのような言葉をレトロニムというらしい。僕が観測する限りにおいてはどうやら「ラジオ」にはレトロニムがない。タバコは紙タバコになったし、時計はアナログ時計になった。しかし、ラジオは電波ラジオにもアナログラジオにもなっていない。少なくとも一般的に通じるような名称が付いているようには思えない。僕が感じているこの(従来の意味での)ラジオに対する郷愁にも似た感情は、僕だけのものなのだろうか。誰もそれを区別することに意味を感じていないのだろうか。ラジオに対するレトロニムを発明して古のラジオの価値を再発見することが急がれる。