「ものもらい」という言葉の奇妙さ
半年ぶりにものもらいになった。片目がほぼ開かない状態なので辛い。なぜこうも頻繁になってしまうのか。まぁ目を擦ってしまっているからだろう。痒いのだから仕方ないのだけど、癖になっている部分もあるのでどうにかしなくては。身体の一部がダメージを受けていると思考力も低下する。今日はとにかく薄っぺらいことしか書けそうにない。
ものもらいはなんでものもらいっていうんだろう。感覚的には人からウィルスかなんかをもらってなるものだからという感じがする。こんなことは調べればすぐに分かるので、さっそく答え合わせだ。ふむふむ。どうやら「人から米や食べ物をもらうと治る」という俗言に由来しているようだ。全然違った。
この「ものもらい」のように一風変わった言葉はよくある。初めて聞いたときはなんだそれと思ったはずだ。しかし大人になるにつれてそれが当たり前になっていく。当初感じていた疑問はいつの間にか消える。そんなことがたくさんありそうだ。今はあんまり思い出せないけど。そうだ。例えば、五右衛門とか伊右衛門とか、どう考えても「ごうえもん」「いうえもん」だ。「右」は呼んでない。最初に聞いたときはおかしいと思ったはずだ。「右」から派生すると、右と左で漢字の書き順が違うのも納得できない。実際書くときはどちらも横棒から書いてしまうけど。こんなくだらない些細なことはそこら中に転がっている。
それは言葉だけではない。行動だったり習慣だったり、あらゆる物事の中に子どものときは疑問に感じていたことがいっぱいあるはずだ。それがいつの間にか何も疑問に思わなくなってしまう。いちいち疑問に思っていたらきりがないということなのだろうけど。いつからかそれらを当たり前のものとして受け入れてしまう。それはとても危険なようにも思う。当たり前のように受け入れていることを疑ってみる。そんなところから研究だったり学問というものが始まっているはずだ。ともすればそれは陰謀論的なことに繋がりかねない。だからこそ先人たちの知恵に敬意を払わなくてはいけない。先人たちの知恵に頼れば良い。大抵のことは誰か考えていたりするのだから。だからこそ安心して疑っていける。当たり前を疑うという気持ちは忘れずにいたい。