今更だが生成AIの進化が凄まじい。しかしこの日記は生成AIを使わないようにしている。それは自分の言葉で書きたいからだ。より正確にいうと自分の思考をそのまま垂れ流したいからだ。そこに生成AIが入ってしまうとノイズになる。それは本当に自分の思考なのかと疑ってしまう。だから自分の頭で考えて書き殴っている。だから生成AIは使わない。言い換えると生成AIに書けない文章を書きたいということなのかもしれない。

しかしよく考えてみると生成AIに書けない文章なんて存在しない。なぜか。簡略化して説明すると、例えば使える文字は50音のみのひらがなだとする。その50音を使って5・7・5の俳句を作るとする。そのときに現れるパターンは50^17(50の17乗)だ。つまり俳句を生成するAIの出力の値域は50^17ということだ。生成AIはこれを確率的に生成しているに過ぎない。もちろん学習データによってそれらの出やすさにはばらつきが出る。しかし、どんなに珍しいパターンでも天文学的な確率ではあろうが生成される確率はゼロではない。それは使用可能な文字や字数が増えたところで、それらが有限である限り変わらない。したがって生成AIに書けない文章なんて存在しないと言っても良いだろう。

そう考えるとこの文章だって生成AIが出力しうる。それはつまり、いかなる文章もAIが書いたか人間が書いたかなんて判別できないということではないだろうか。僕自身は今自分の頭で考えてこの文章を書いていると分かっているが、これを読んでいるあなたはこれがAIが書いた文章であるという可能性は消すことができない。今の生成AIが作る文章にはある種の特徴が見られるのでそういう意味では可能かもしれないが、今後ますます進化していくとより分からなくなってくるだろう。

だからこそAIが書けない文章なんてないということを受け入れるしかないのだと思う。その上で自分はあらゆる確率の中で今書いている文章を掴み取ったと解釈することしかできない。ここでふとある言葉が浮かんだ。それはニーチェの「永劫回帰」だ。聞きかじった程度の知識ではあるがこれは「永劫回帰」に近い感覚な気がする。僕の理解では永劫回帰とは、この世界というのはある種のパターンの連続にすぎず、その連続は何度も繰り返されるということだ。僕らはデジタルの世界においてはある種のパターンでしかない。より厳密にいうとデジタル世界はすべて0と1のみで表現できる。その0と1で現れるパターンを操作しているに過ぎない。僕らは今まさにデジタル世界を通して永劫回帰を体感しているのかもしれない。ニーチェはそれを絶望と捉えず、それを受け入れたうえで肯定することを説いていたはずだ。朧気な記憶なので自信を持って言えないが、これからのAI時代を生きるヒントがありそうだ。今こそニーチェを読むときなのかもしれない。