知識が増えれば増えるほど、逆説的だが世の中のことが分からなくなる。それは物事を一つ理解したと思ったらその先に分からないことが出てくるからだ。だから勉強というのはとても面倒くさい。大人になればなるほど勉強から遠ざかる。それは単に面倒くさくなってしまうからだ。だって知識が増えると更に分からないことが増えることを知ってしまっているのだから。大人になるとある程度の知識で生きていける。生きていけてしまう。そして学ぶことをやめる。ある程度のところで知った気になっていた方が楽だから。結局は楽をしたいだけ。かの有名なソクラテスは「無知の知」という言葉を残した。2000年以上前の言葉だが今も錆びれない本質を突いた言葉だ。みんな、誰一人、世の中のことを知っている人なんていない。それなのに知ったかぶりをしている。この言葉は学問や研究の本質だと思う。しかし何せ堅い。知ったかぶりをする人に説いてもそんな堅すぎること言うなよと言われてしまいそうだ。

そこで僕は「知を笑う」という言葉を提唱してみたい。つまり知=知ったかぶりをしている人を笑うということだ。テレビやインターネット、さまざまなメディアに触れていると恰も物事を分かりきっているという態度で喋る人々がいる。世の中そんなに簡単じゃない、と僕は思ってしまう。科学的な叡智を結集して、なんとかここまで分かった。いや、それすらも根本的なところが崩れれば間違っているかもしれない。本当はそのくらいしか言えないはずだ。これで分かったことにしてしおう。そんな知に対する傲慢な態度はすぐに分かる。だったらそれを笑おう。それは人間の愚かさだ。人間の愚かさに可笑しみを感じるのが笑いだ。

僕は昔からお笑いが好きだ。笑うという感情に嘘はつけないと思っている。それはinterstingと訳されるようなものではない。もっとバカバカしくてくだらないようなfunnyさだ。だから「この笑いが分からないのはダメだ」という傲慢さが嫌いだ。笑いとはもっとシンプルな感情だと思うから。interstingな笑いは知=知ったかぶりの笑いだ。もちろんそれを否定する気はない。しかしそこで起きる頭で理解するような笑いは僕の好きな笑いの感情ではない。知=知ったかぶりという愚かさを笑う、そんなバカバカしさが好きだ。それは誰かがズッコケたり、落とし穴に落ちてしまったり、緊張感のある場所でオナラをしてしまったり、そんな類のものだと思う。そういう意味ではかなり暴力的な笑いでもある。笑いは誰かを傷つける。僕にはそれを否定できないように思える。でも人間はみんな愚かだ。そんな愚かさを笑い合ってもいいのではないだろうか。