一貫性があるとは何か
自分の書いていることがあまりにも一貫性がなさすぎる。昨日Aと言っていたことが、今日はBに間違いないと言っていたりする。この日記に書いてあることを分析すればボロボロ出てくるだろう。それでも自分の中では一貫していると思っていたりする。自分という核は変わっていないのだから、一貫しているはずだと思い込んでいる。
そもそも一貫性とは一体何なのだろうか。一般的には一貫性があることは良いことのように思われる。確かに言っていることがコロコロ変わる人は信用できそうにない。逆に何年も前からずっと同じことを言っているような人は、確かに文字通り一つのことを貫いている。それが信頼に繋がるのは分かる。
例えば好きな食べ物について考えてみる。正直食べたいものなんてその日の気分で変わるし、これだ!と挙げられるものなんてない。強いて挙げるなら担々麺とチーズケーキだろうか。この2つは他の食べ物と比べて美味しいと思うし、食べる頻度もそこそこ多い。しかし毎日食べるわけではない。いや毎日どころか月1食べれれば良いほうだ。特に担々麺はお気に入りの店も限られているので、そんなに高頻度で行けない。近くにあればいいのだけど。まぁそんなことはどうでもいい。好きな食べ物はと聞かれて何かしら頭に浮かぶ人は多いと思う。でもそれを毎日食べてるような人はいなさそうだ。もちろん健康的な面もあるとは思うけど。でもほとんどの人は毎日いろいろなものを食べている。それでもその人の中に好きな食べ物がある。そんな人を好きな食べ物に対して一貫性がないと思うだろうか。毎日その食べ物を食べ続けるような人もいるにはいるかもしれないが、それでも毎日食べずともそれが一貫性のなさにはならないはずだ。担々麺好きだって言ってたけど、この前ラーメン食べてたじゃん!一貫性無っ!なんて言われようものなら張り倒してしまいそうだ。
これが一貫性の正体のような気がする。真に好きな食べ物は心の内にあるが、日々食べるものはバラつく。真に好きな食べ物を正規分布における平均値のようなものだとすると、日々実際に食べるものとして現れるのは実現値だ。その正規分布は山がとてもなだらかで裾野が広い。すなわち分散が大きい。それ故に日々食べるものはかなりバラつく。でも真に好きな食べ物=中心は変わらない。極端に山が高く、毎日同じ食べ物ばかり食べる人もいる。結局分散の大きさの違いだけで、人それぞれ中心=平均という一貫性を持っている。なんとなく分散が小さい人のことが一貫性がある人と見られがちな気がする。どちらも平均という不変な値を持っているにもかかわらず。だからいくら分散が大きくても人それぞれの平均を見つめていたい。そこにその人の真があるはずだ。この日記もかなり分散が大きい。しかし、僕の思考の中心という一貫性はあるはずだ。