基準を野生にせよ
自分の価値観の基準は生まれた環境によってある程度決まってしまうように思う。裕福な家庭に生まれれば基準が高くなり、貧しい家庭に生まれれば基準は低くなる。基準が高いということは満足できる最低ラインが高いということだ。厄介なのが一度基準を上げてしまうと下げるのは困難になってしまうことだ。僕は昔それはそれは安いイヤホンを使っていた。センター試験のリスニングで使ったイヤホンを取っておいて使っていたこともある。しかし特に不満はなかった。音楽やラジオさえ聴ければ良かったからだ。少し余裕が出てきてちょっとだけ良いイヤホンを買ってみた。音が全然違う。クリアに聴こえる。しかしこれが悪夢の始まりだ。だんだんとそれが当たり前になってくる。毎日そのイヤホンを付けているとそれが馴染んでくる。そうなるとソレが基準となってしまう。そのイヤホンが壊れてしまったとき、昔使っていた安いイヤホンで聴いてみた。なんだこのノイズは。こんな音質ではとても聴けたものではない。昔はこんな音質で聴いていたのかと驚愕した。一度上がってしまった基準は容易には下げられなということをそこで知る。
これは「生活」というもっと漠然としたものにも適用される。日々働いていると少しずつ生活が豊かになってくる。このままでは基準が上がってしまう。僕は一度上がったものが簡単には下げられないことを知っている。どうにかしなければ。僕はそれほど裕福ではない家庭で育っている。だから元々生活に対する基準はそれほど高くないと思っている。(とはいえ大学にも進学しているし恵まれたほうだとは思っている。)元々の基準がそれほど高くないから、年々向上していく生活に満足している。しかし、今の生活を基準にはしないように意識している。それはそこを新たな基準にしてしまうと後から下げられなくなってしまうことを知っているからだ。いや意識しなくとも生まれた環境というのは強烈なもので、そこが自然と基準となったままなかなか動かないのかもしれない。とにかく僕の基準はずっとあの頃のままなので、常に満足度が高い状態だ。逆に裕福な家庭で生まれ育った人は、相対的にみて多く稼いでいる場合でもそれほど満足度は高くないのかもしれない。相対的にみて豊かな暮らしをしているのに満足度はそれほど高くない。それはある意味不幸なのかもしれない。
人は誰しもなにもない真っ裸の状態で生まれてくる。ある意味すべての人々の基準は野生であるはずだ。野生を基準に置けばほとんどの人は満足度が高くなるはずだ。だから野生に基準を置こう。そうすれば自ずと幸福が感じられる。かもしれない。