自分の頭で考えるとは何か
自分の頭で考えるとはどういうことだろうか。よくいわれるのは、人はいろいろな物事を見たり聞いたりしてきているのだから結局その人自身の考えなんてものはないということだ。僕が考えていることだってそうだ。今まで読んできた本、見てきたテレビ、映画、YouTube、経験してきたこと等々、周りから与えられたものが基になっているはずだ。そう考えると自分の考えなんてものはない。一つあるとすれば取捨選択だ。自分にはしっくりこないもの、納得のいかないものなどは捨ててきている。自分の中にスッと入ってくるものだけを選んでいる。そうやって選んできたものを組み合わせて自分なりの考えというものを構築しているような気がする。組み合わせの数は膨大だ。数学的には組合せ爆発と呼ばれるくらいだ。その爆発的な量の中からそれぞれの人が自分の考えを構築する。だから誰とも被らない。自分の頭で考えるとはそういうことなのかもしれない。
それでは自分に合ったものを選び取るという行為自体は本当に「自分」で行っているのだろうかという疑問も湧いてくる。それだって誰かに与えられたものが基になっているはずだ。そう考えるとやっぱり自分の頭で考えるということ自体幻想なのかもしれないと思えてくる。
それでもやっぱり自我というものはあるような気がしてしまう。かのデカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。私自身が「思う」という行為を行っている。それだけは疑いようのない事実だ。いや、本当にそうなのか?その私自身が思っているという行為すら誰かに思わされているだけなのかもしれない。仮にそうであるとしても私自身には思うという行為しかできない。結局、自分の頭で考えるとは何か?と問うこと自体無駄なのかもしれない。
自分の頭で考えるというのは確かに大事なことのように思える。しかし問い続けた先は結局分からない。自分の頭というものがなんなのか。それなら自分の頭で考える必要なんてない。そんな面倒くさいことは考えず、ただ思うがままに生きていればいいのかもしれない。いや、でもそれはやっぱり間違っていると言いたい。限界があるならその限界を認めつつ、できることをしていけばいい。できることとは何か。それはやっぱり先人たちに学ぶということだろう。だから自分の頭で考えるというのは、その言葉とは矛盾するようだが、他人の考えを知るということに他ならない。自分の頭で考えろ!なんて言い方は間違っているのかもしれない。とにかく他人の考えを学べ。自分の頭で考える必要なんてない。いや他人の考えを学ぶことが自分の頭で考えることそのものだ。