昨今のAIの進化は凄まじい。もはやチューリングテストという言葉すらほとんど聞かなくなってしまうくらい人間を超えてしまっている。ここで改めてチューリングテストについて考えてみたい。

説明するまでもないかもしれないが、チューリングテストとは、機械が人間的であるかどうかを判定するテストのことである。どのようなテストかというと、とある部屋にPCとキーボードを置き、壁の向こうにいる相手とチャットをしてもらう。その相手は人であるかもしれないし、機械かもしれない。チャットのみを通じて相手が人か機械か判断できなければ、チューリングテストは合格。つまりその機械はもはや人間といっても差し支えないということである。昨今のAI、ChatGPTやGeminiを使ったことがあれば、簡単にチューリングテストを合格できそうなことは容易に想像がつく。もはや人間を超えすぎていて、かなりの長文をこんなに短時間で書けるのは逆にAIだと思ってしまうくらいだ。

ここで重要なのが人間的な知能というものが、あくまで振る舞いのみで判定されているということだ。つまりこちらから投げかけた言葉=入力に対する出力のみで判定している。中身はブラックボックスなのである。これはどういうことか。言い換えれば知能とは何かという定義そのものは諦めたということだ。振る舞いが人間の知能っぽければもうそれは人間的と言っても良い。そういうことだ。

結局知能とは何かという問いには何も答えていない。そもそもそれは不可能なことなのかもしれない。命とは何か、心とは何か、人間というものには分かっていないことが多すぎる。どうしてもそれらは振る舞いを観測することでしか測れないのだろう。

僕は今エンジニアとして働いている。しかし昨今のAIに仕事を奪われはじめている。正直かなり焦っている。プログラミングはAIにはできないんじゃなかったのか。逆に考えるとこれまで僕がやっていたことは与えられた入力に対してプログラムを出力していただけに過ぎないのだ。その中身はどうだっていい。振る舞いがすべてだったのだ。PCだけで仕事が完結しているということはそういうことなのだ。今常に次の一手を考えている。商品を渡してバーコードを読み取り会計をする。そんな振る舞いだけをしていればいいような仕事はどんどん奪われていく。そうだ、ホスピタリティだ。例えば接客業にはホスピタリティという名の人間性がある。結局そういう人間的な部分に向かっていくのかもしれない。それが求められているかは別の話だが。