“I miss you”という文章を直訳すると「私はあなたがいなくて寂しく思う」だ。たぶん中学生ぐらいのときに初めてこれを見て、いや長すぎるだろと思った記憶がある。「〜〜がいなくて寂しく思う」だと?もっと簡潔な日本語はないのか。ないからこういう訳し方になっているのだろう。

翻訳というのは難しい。なぜなら言葉同士が一対一対応していないからだ。一対一対応していれば単にその言葉を置き換えれば良い。りんごはApple、みかんはOrangeのように。しかしそんなに簡単に一対一に対応するわけはない。それぞれの文化も異なるのだから。特に感覚的なものはもっと難しい。楽しいはhappyなのか?悲しいはsadなのか?僕にはそれが感覚的に合っているのかよく分からない。一方の言語にはあるのに他方の言語にはない表現というものもある。最初に挙げたmissなんかがその例だと思う。missを一言で言い表せる日本語がない。いや本当はあるのかもしれないが。少なくとも日常的に使われる言葉にはないように思う。これはどういうことか。それはつまり日本語を母国語とする人たちにはmissという感覚がないということだ。思考と言語は繋がっていると思う。だからその言葉がないということはそういう感覚がないということでもある。いや感覚はあるのかもしれないが、それを捉えきれない。モヤモヤしたなんとも言い表せない感情として処理されるのかもしれない。

だからこそ語彙を増やすことは大事だと思うし、語彙だけでなく他言語を学ぶことも大事なのだと思う。今後ますます翻訳技術が発展していくと他言語を習得する必要などなくなってしまうかもしれない。それは日常生活を送るうえではなんの問題もないだろう。むしろ便利になって良い世の中だ。しかし思考においては違う。今ぼんやりと考えていることを言葉にして掴んでいくとき、どれだけの言葉を身に付けているかが大事になってくる。もしかしたら今考えていることは英語で考えたほうがいいのかもしれない。いや中国語、フランス語、イタリア語、ロシア語、……スワヒリ語かもしれない。そもそも他言語を知らなければそんな発想も出てこない。僕は日本語しかできない。まぁある程度勉強をしてきた以上、多少の英語もできるといっていいかもしれないが、英語で思考するなんてほど身体化できていない。この日本語しかできないということが思考を狭めているようにも感じる。

逆のことを考えると、昔「肩こり」という言葉は英語にはないと聞いたことがある。だから英語圏の人たちは肩こりにならないというのだ。本当かどうかは知らない。しかしもし本当であれば少なくとも肩こりという認識は生まれない。バカは風邪を引かないと同じだ。つまりバカは風邪を引かないのではなく、風邪を引いたことに気づかないということだ。語彙を少なくして、世界の解像度を下げることは実は悪いことばかりではないという側面もあるのだろう。その上で僕はやっぱり解像度を高く世界を見ていきたいと思うのであった。