私は触媒になりたい
僕は世界において触媒のような存在になりたいと思う。触媒とは、一般に特定の化学反応の反応速度を速める物質で、自身は反応の前後で変化しないものをいう。(Wikipediaより引用)
触媒のような存在とはどういうことか。言葉の意味通り、自分自身は変化しなくてもいいが、周りの変化を促進するような存在でありたいということだ。僕自身10代、20代の頃はある程度勉強を頑張ったり、仕事を頑張ったり確実に成長してきたと思う。そこには自分が何者かになりたいという欲求が少なからずあったように思う。自分には世界に影響を与えられるような大きな力があるのではないか。大きな勘違いと驕りだ。しかしそれこそが自分を大きく成長させたともいえる。そのような勘違いや驕りが必ずしも悪いことだとはいえない。
30代の頃からは大きな変化がないように感じている。以前ほど本も読まなくなったし、何かを成し遂げようという気持ちもなくなった。10代、20代の頃の余力で進んでしまっているような気がする。余力で進めるほどあの頃に頑張って船を漕いだと捉えることもできるが、もうあの頃のように成長はできないのかもしれないと思ったりもする。そこに焦りすらも感じていない。焦りを感じないということ自体に焦りを感じないこともないが。まぁ、これでいいかという気持ちの方が大きい。ライフスタイルも変わったのだから仕方がないことなのかもしれない。
そんなときこう思った。自分がこれから目指すべきは触媒なのかもしれない。自分自身の変化はもう終わった。あとはただ存在しているだけ。ただ存在しているだけだが、その存在が周りの変化を促す。そういう存在になれたらどんなに素晴らしいか。世の中的には変化したものにこそ価値が付くのかもしれない。例えば会社で考えてみよう。あるカリスマ経営者がいたとする。そしてそれを支える社員がいる。ある社員は存在しているだけで会社の雰囲気がよくなる。その社員がいるだけで、いやいたからこそそのカリスマ経営者は新たな商品を生み出すことができた。そしてそれは世の中を少し動かすようなものだった。外から見ればやはり注目されるのはカリスマ経営者だ。だけど僕はそのカリスマ経営者にはなりたくない。なろうとも思わない。それを促した社員でありたい。無も無き社員でいい。触媒としての価値すら見つからなくてもいい。ただ存在そのものにのみ価値がある。そうありたい。
ここまで書いて思ったが、人は皆そもそも触媒としての価値を元々持ち合わせているのかもしれない。存在に価値がない人なんていない。そこに存在しているだけでしているだけで何らかの影響を少なからず及ぼしている。だから触媒になりたいとすら思わなくてもいいのかもしれない。我々は元から触媒だ。